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佐藤文明(戸籍研究)

参政権回復の試み

1942年の初め、太平洋戦争の戦局が悪化しながらも、日本軍の前線がもっとも拡大していたころである。軍部と朝鮮総督府は朝鮮人の徴兵の前提として、戸籍の統一を敢行するよう主張した。それまで日本は朝鮮に日本式の戸籍を押しつけながらも、淵源となる法律は戸籍法ではなく朝鮮戸籍令(朝鮮民事令中戸籍ニ関スル規定)によるものとし、日本(本土)とは別な制度のままに留め置いた。相互の転籍をも許さなかったのである。

軍部としては皇軍兵士としての徴兵でなければ指揮命令系統に支障をきたすと考え、総督府は朝鮮兵の士気にかかわると考えた。これが戸籍の統一(創氏改名もその一歩であったと考えることができる)であった。これに対して内務省は猛烈に反対。「不測の事態に備え、民族混交を防ぐため、戸籍は従来どおり別々に」と抵抗。論争は44年に激化したが、結局、統一のないまま朝鮮人への徴兵が実施された(発表は42年5月、実施は44年4月)。「不測の事態」を推し測るのも奇妙だが、これを日本の敗戦と理解してもいいだろう。

内務省のこの判断が、日本の戦後処理、すなわち旧植民地出身者の切捨てに利用されたことを、わたしたちは知っている。そのひとつが1950年の公職選挙法で「戸籍法の適用を受けない者の選挙権及び被選挙権は当分の間停止する」という規定。もうひとつが1952年の民事局長通達で「朝鮮人台湾人等に関する国籍及び戸籍事務の処理について」と題する指令である。日本は前者によって在日台湾・朝鮮人から選挙権を、後者によって日本国籍を事実上剥奪した(最高裁は台湾人の国籍喪失は同年の日華平和条約による、としている)のである。

後者の問題についてはこれまでも多くの指摘がされ、それでも足りないほどのテーマを抱える。が、この点は近々提訴される国籍確認訴訟の中でも展開されると思われるので深入りはしない。ただし、2001年2月に突如浮上した特別永往者への「国籍取得緩和法案」について一言触れておこう。櫻井よしこらが提起したときは、地方参政権付与法案潰しの対抗策と考えたが、自・公・保、与党三党によるプロジェクトチームが発足。考えを改める必要が生じた。これは徴兵あるいは戦争シフトなのである。日本が本気で戦争のできる国になろうとするなら、徴兵に対する抵抗勢力を減らさなければならない。徴兵か排除かの踏絵を踏ませる必要があるのだ(03年に成立した戸籍の「性別の取り扱いの特例に関する法律」と同根)。

幸か不幸か、与党内のウルトラ右派に反対が強く、成立はおぼつかなくなってきたが、法案の登場が地方参政権論議をしぼませ、国籍剥奪を認めず原状回復を求める日本国籍確認訴訟を、国籍取得緩和法案と類似の要求と錯覚して警戒、敬遠する傾向を生んだ(歓迎する部分もあり、在日社会に亀裂を生んでもいる)ことは残念なことである。筆者としてはやはり1952年の原点に還って、剥奪の違法・無効性を追及すべきだと考える。したがって、国籍も参政権(この場合の参政権が国政を含むのは当然のことである)も改めて付与されるスジのものではない。潜在的には今も持ち続けている権利の回復なのである。が、それはともかくここでは地方参政権に限って、もう少し考察を深めてみたい。

住民・市民権の確立

少々横道にそれるようだが、1950年の公職選挙法の改正で現実的にはなにが行われたのだろうか。戸籍要件によって選挙権を停止するといっても、当時の戸籍はかなり回復していたとはいえ、東京・大阪などの大都市では戦災で消失した戸籍の再製作業はなお継統中だった。戦災を受けていない地方でも、勤労動員などで生活実態とは遊離。徴兵簿としても使い物にならない状態だった。実態を反映していたのは唯一、自治体が町内会などを足場に整備していた配給台帳、すなわち世帯台帳(名称は各地でそれぞれ)である。が、ここには台湾・朝鮮人も等しく登録されていた(46年7月には「配給に関する覚書」が出され、平等は再確認されている)。

46年の「帰還希望者登録」を足場に47年5月、台湾・朝鮮人を「当分の間外国人とみなす」とする「外国人登録令」が出されたが、登録はなお申告で、なんらかの証明を要するものではなかった。基本的には選挙権も同様で、当時は申告による選挙登録(選挙人名簿への登録→縦覧→確定)が必要とされるだけ。戸籍その他の証明が求められたわけではない。住民登録法の施行も翌52年6月なので、住民票もまだ存在していなかった。つまり、この選挙法の改正はかなり強引なもので、選挙実務から見ても合理的なものではなかったのである。これが比較的円滑にいったのは、当の台湾・朝鮮人が日本の選挙登録を望んでいなかったからである。

それはともかく、この改正の最大の問題点は地方参政権をまったく無視し、国政と同列に扱っていることだろう。生活実態のレベルではすでに分離不可能な存在になっていた隣人としての在日を地方参政権レベルで切り捨てる根拠は何もないはず。ここには住民自治、市民主権といった視点の欠如が見て取れる。

そのころ住民登録についてもバトルが発生していた。サービスに使ってきた世帯台帳を公的な登録簿として法的に認めてほしい、という自治体の要望を政府(法務省)が拒否。「体裁が不統一」であることと「自治が未成熟」であるため政府のリードが必要だ、というのがその理由だった。

が、ホンネは台帳を戸籍から遊離させたくない、ということだった。だから、登場した住民登録法は自治体の固有事務ではあったが、戸籍事務の部分事務であった寄留簿を住民票ができるまでの繋ぎとして利用させたり、戸籍のない皇族及び外国人を住民登録から除外する政令の制定を許してしまうことになった(民法上「住民」には外国人が含まれるため、地方自治法では「日本国民たる住民」を多用して外国人排除を行っている)。

たしかに自治に委ねる危険性がまったくないわけではない。戦前の内鮮協和会は大阪府が自主的(背後に内務省があったが)に生み出した、とされている(協和会手帳も民間主導で導入された)し、戦後も大阪府は独自に朝鮮人指紋登録条例を施行していた。人権無視を先導する自治体(戸籍のない子に住民票を作らない東京都世田谷区のケースも同根。裏にはすべて内務省・自治省の影がある)の存在をどうするかは別途に考えなければならない問題として存在する。

が、ともかくこのとき、日本は外国人住民を登録上で平等に処遇するチャンスを持っていた(アメリカの施政権下にあった沖縄では、内外人平等の住民登録が実現していた)のである。住民である以上、住民としての権利の行使、すなわち地方参政権の保有を当然とする意識が定着する可能性もあったといえる。いうまでもなく、ここでいう外国人とは、在日台湾・朝鮮人を指すものではない。定住する外国人一般を指している。筆者は地方参政権を一定の要件を備えた外国人一般の権利ととらえる。この際、在日の歴史性は考慮する必要がない(必要があるのは国政選挙を考える際である)のである。

もっとも、住民自治、市民主権といった発想は政府ばかりではなく、当の住民、市民の側にもなかったのではないか。住民としての意識や市民としての自覚がないところには住民権、市民権といった発想も生まれてこない。住民も市民も国民に従属してしまうのである。だから、隣人との安定した市民生活を送る権利、などというものは構想されない。強制送還で隣人が消えても、それは「外国人だから」で終わってしまう。自分の権利が奪われたとは考えない(唯一、この声を挙げたのはカルデロンちゃんのクラスメートだけだ。「これからも仲良くしたい」これは保護されるべき日本人自身の権利である)。

こんな状況の中、昨年、入管体制が大変貌を遂げた(施行は2012年)。これを政府の額面どおり「外国人登録は廃止され、住民登録へ」と錯覚している者がいる。が、この国が外国人を平等な住民として迎え入れるわけがない。外国人登録は廃止されたのではなく、戦前のような入管局(内務省警保局外事課)の隠密事務(法に縛られない勝手な登録)に戻ったのだ。指紋はもちろん、その代わりに導入された家族登録、プロファイリング(テロ防止に乱用されているFBIの捜査手法)に有効な経歴や交友関係の記録など、なんでもありの入管データベースが3か月以上滞在する外国人を見張ることになる。そして新たに、自治体を外国人管理の手先とし、居住地支配を強めようというのである。住民票がサービスの台帳だなどという幻影はもうとっくに崩壊(67年の住民基本台帳法の成立。99年の住基ネットシステムの導入)している。

住民自治、市民主権のない日本にあって、外国人住民がどんな形で登録されようとしているのか。新たに登場するカードの仕様と運用を含め、厳重な監視が必要だろう。あるべき住民の登録や地方参政権のあり方については、政府に対するお願い・要望ではなく、住民自治、市民主権の立場からの提案が急務である。


原典について


Copyright(C) 2011-2012 日本国籍のなしくずし剥奪を許さない会
公開日:2011年5月6日、最終更新日:2012年9月11日
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