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在日がもつ日本国籍とは

1910年、日韓併合条約によって国を奪われた朝鮮人は、一方的に国籍を奪われ日本国籍を強要されました。1952年、法務府民事局長は、サンフランシスコ講和条約が発効する日から朝鮮・台湾人はすべて日本の国籍を喪失するなどと通達。これにより朝鮮人の日本国籍は、再び一方的に奪われたとされました。

1961年、最高裁判所大法廷は、サ条約発効当時に朝鮮戸籍に登載されるべき人は、すべて朝鮮に属すべき人として日本国籍を喪失すると判示。事実上通達の解釈を支持し、以後これが判例となりました。

韓国併合100年を経た2010年、サ条約締結日の9月8日を期して日本国籍確認訴訟が提訴されました。

「吾、一度も日本国籍を放棄せず!」

原告のキム・ミョンガンさんは在日コリアン二世の特別永住者です。1950年、日本国籍をもつ両親から日本で生まれたキムさんは、日本国籍をもって生まれました。ところが父母の出身地が朝鮮というだけで、一方的に日本国籍を奪われる扱いを受けてきました。

サ条約は国籍についてひとことも触れていません。キムさんは訴えます。「日本がサ条約で北方領土や竹島を一度も放棄したことがないというのと同じ理由で、私も日本国籍を一度も放棄したことはない。現在も保有している日本国籍を確認する」と。

在日コリアンは戦後補償問題では内地戸籍がないことを理由に補償の対象から外される一方、サ条約発効後に朝鮮人戦犯の釈放を求めると今度は日本国籍があったのだからと有罪とされました。時と場合で戸籍と国籍を使い分けるやり方を、キムさんは「戸籍と国籍の恥辱のキャッチボール」だと非難します。

キムさんは、裁判に勝って日本国籍が確認されたら今度こそ自分の意思で国籍を選択したいと訴えます。

民事局長通達とは何か

キムさんと30年来の親友である戸籍研究者の佐藤文明さんは、過去の裁判記録を調べ直して気付きます。一介の民事局長に国籍を奪う権限などなく、まして職務命令にすぎない通達を最高裁が追認し国籍の剥奪を容認するなど論外であると。日本国籍は奪われておらず、政府はなしくずし剥奪を狙っているのだと。

日本は、植民地朝鮮に朝鮮戸籍(外地戸籍)を作りましたが、内地戸籍との間の異動は認めませんでした。その例外が一方の「家」を去り他方の「家」に入る婚姻や養子縁組でした。たとえば朝鮮人男性と婚姻した日本人女性は、朝鮮戸籍に入籍し、内地戸籍から除籍されました。通達は、内地・外地間の戸籍異動を廃止し、日本人を内地戸籍から除籍することをやめるよう指示したものであり、それを戸籍担当者に命じるために民事局長の職務権限を超えるサ条約の解釈や国籍変動論を展開したのだと佐藤さんは読み解きました。

原告は在日だが、これは日本人の問題だと常々話していた佐藤さんは、2011年1月3日に亡くなりました。病床で書き続けた、この問題に関する文章が絶筆となりました。キムさんの落胆ははかり知れません。

人権からの発想を

裁判を引き受けたのは在日気鋭の張學鍊(チャン・ハンニョン)弁護士。最高裁大法廷判決の見直しを迫るため、判例が取りあげていない論点、特に国籍の剥奪に当たって出身による差別をしたとして差別を禁じた憲法14条違反を中心に主張を展開しています。

在日が内国人として権利を主張するこの裁判について張弁護士は、歴史的な発想ではなく、人権からの発想が必要だと言います。佐藤さんが2010年4月「モンスター」第3号に寄せた論考のなかで「筆者は地方参政権を一定の要件を備えた外国人一般の権利ととらえる。この際、在日の歴史性は考慮する必要がない(必要があるのは国政選挙を考える際である)」と述べているのと通じるものがあります。

この裁判は、ひとりキムさんの闘いに留まらず、戸籍・国籍制度が押しつける枠組みに反対する多くの人たちと共有できる可能性をもっています。

判例に照らして可否を決する裁判では、いくら法論理的に主張で勝っていても、判例を覆すのは困難。被告国は判例を楯に逃げの一手。一審は早くも次回結審の模様です。裁判に対する注目と連帯を訴えます。

一審第3回口頭弁論は、5月11日水曜日午前11時15分から東京地裁522号法廷で。


原典について


Copyright(C) 2011-2013 日本国籍のなしくずし剥奪を許さない会
公開日:2011年5月6日、最終更新日:2013年1月4日
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